►武田軍(推定戦力20,000人)
諸角 虎定(戦死)・室住虎光。信玄の父信虎時代からの侍大将。討ち死にの際、上杉方に首を取られるが、寄騎たちが取り戻す。
山本 勘助(戦死)・全国を旅した異形の兵法家。信玄仕官後、内政と軍事に助言。作戦失敗の責任を取って敵陣に突入し討ち死。
飯富 虎昌・・・・・武田家随一の宿老。信玄の嫡男・義信の傅役や赤備えを率いる大任を務めた。義信事件に連座し、後日切腹。
真田 幸隆・・・・・八幡原合戦の別働組。村上義清勢の報復を一手に引き受ける覚悟で参戦。
馬場 信春・・・・・八幡原合戦の別働組。前年に傷病で隠退した名将・原虎胤から美濃守の名乗りの引継ぎを許され、美濃守。
山県 昌景・・・・・飯富虎昌の弟(又は甥)。部隊の軍装を赤一色に統一し編成し「赤備え」として後年諸大名から畏怖された。
武田 信玄〔総大将〕勘助と馬場信春に上杉勢を打ち破る作戦を立案するよう指示し、啄木鳥(きつつき)戦法を採択。
内藤 昌豊・・・・・八幡原合戦の別働組大将。
武田 信繁(戦死)・信玄の忠実な弟にして武田家の副将格。信玄は遺体となった弟を抱いて号泣。敵方からもその死を惜しまれた。
高坂 昌信・・・・・八幡原合戦の別働組。
真田 信綱・・・・・八幡原合戦の別働組。
►上杉軍(推定戦力13,000人)
中条 藤資・・・・・御年70にして八幡原合戦に参戦。景虎より血染めの感状を貰う。
色部 勝長・・・・・八幡原合戦では、出張り過ぎて一時危機に陥った柿崎景家を救うなど、上杉軍ベテランの老将。
村上 義清・・・・・嫡男国清とともに上杉家臣となる。国清は景虎の養子に迎えられて山浦姓を名乗り、上杉家第2位の地位に。
高梨 政頼・・・・・信濃国中野を拠点とする国人。中野城(高梨氏館)や飯山城を拠点に、上杉氏に従って武田氏と戦う。
本庄 実乃・・・・・栃尾城主。幼少期の景虎の器量を見抜いた。景虎の若き頃の軍学の師。
直江 景綱・・・・・長尾為景・晴景・景虎の3代にわたって仕えた宿老。養子に直江兼続。
柿崎 景家・・・・・上杉軍の武勇一番手の武将。車掛かりの先陣となって、武田軍の備えを奥深くまで崩したという。
甘粕 景持・・・・・武田方陽動隊の足止めと、全軍撤退時の殿(しんがり)役を全うし、その名声は全国に広まった。
斉藤 朝信・・・・・鍾馗のような立派な髭を蓄えた、片目の小兵だったという。どこか山本勘助に重なる立場。
上杉 政虎〔総大将〕この間、長尾景虎、上杉政虎、輝虎と立場の向上とともに改名。謙信の名乗りは、だいぶ後の1570(元亀元)年より。
本庄 繁長・・・・・この時点ではまだ駆け出しの青年将校だが、後年「上杉家に鬼神あり」とまでいわれる武将に成長する。
►第一次合戦(布施の戦い)
1553(天文22)年9月
戦に敗れ、越後に落ち延びてきた村上義清の塩田城奪還に向け、長尾景虎軍がはじめて北信濃布施(現長野市篠ノ井)において武田軍の先鋒を破った。これに対し信玄側主力は塩田城を固く守り、決戦せず。双方引揚。上杉側は村上旧領の奪還に至らなかったが、影響力を北信濃に残した。
►第二次合戦(犀川の戦い)
1555年(天文24)年7月~閏10月
善光寺国衆の栗田は武田方に寝返り、北信濃塩田城より更に40km北方の旭山城に、栗田と武田軍援兵3000が籠城した。
景虎は4月に善光寺奪回のため長野盆地北部に出陣。長尾軍は、旭山城から裾花川(犀川支流)を挟んで北方わずか2km弱の位置に葛山(かつらやま)城を築き、これに対抗。
半年余りの対陣で冬が迫る中、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵する。
►第三次合戦(上野原の戦い)
1557年(天文24)年2月~9月
武田軍は年明け早々、長尾方の前線拠点であった葛山城(長野市)を落とし落合氏を滅ぼし、上杉方の高梨政頼の居城である飯山城に迫った。
これに対し、景虎側の対応は雪解けまで遅れた。4月になってようやく景虎軍は長野盆地に着陣。4月から6月にかけて北信濃の武田氏の諸城を攻め、破却されていた旭山城を再興して本営とした。
以降、6月には武田の同盟軍である北条綱成の加勢が上田に来て、これとの見合いのため、景虎軍は飯山城まで撤退する。8月に、長尾軍、武田軍は髻山(もとどりやま)城周辺の上野原で合戦する。
秋口9月に上杉軍は引揚し、武田軍も翌10月に撤兵。
►第四次合戦(八幡原の戦い)
1561年(永禄4)年4月~10月
第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で最も大きな会戦となり、多くの死傷者を出した。
小田原城を景虎に攻められていた北条氏康と呼応して、信玄は川中島に4月に海津(かいづ)城を築いた。これにより小田原交戦中の景虎の背後は脅かされた。
おりしも関東管領に就任し、武威の高まった景虎は、上杉政虎と改名。8月には海津城の武田方を本格的に打倒すべく、海津城の懐深くまで回り込んで、同城の南西にある妻女山(さいじょさん)に布陣した。
信玄方も負けじと、妻女山の北にある千曲川を挟んで対岸側に陣取り、海津城とともに退路を断つように布陣ができた。
しばらくの戦線膠着で、信玄側は拠点の海津城に兵を移動。上杉側はリスクをとらず、あえて海津城に移動中の武田軍とは衝突せず。
武田方はこの後、軍を二手に分けて相手方を挟撃する「啄木鳥(きつつき)戦法」を採択し、いよいよ陽動隊の馬場、高坂らの別動組が上杉方の妻女山を12000の兵力で迫る。
武田方は作戦の準備により飯炊きの煙が繁くなっていることに気づいた上杉側は、夜陰にまぎれてひそかに妻女山を急ぎ下り、本隊のみ8000人の武田軍が到来するであろう八幡原(はちまんばら)に一足先に着陣することに成功した。
翌朝は、いるはずのない上杉軍が眼前に現れ、動揺する武田軍に、車掛かりの陣(波状に順次陣形を変えながら前方に飛び出していく陣法か)で上杉軍が正面から猛攻を加えた。押されまくった武田方は副将の武田信繁らを失った。
妻女山から急ぎ八幡原に向かいたい馬場、高坂らは、上杉方の甘粕勢1000に阻まれて、相当の時間足止めを食らうことになる。
早朝からの一大合戦も、昼前には武田方の馬場、高坂らが八幡原に到着し、現地の形勢が徐々に逆転。
形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に敗走した。信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。旧暦10月10日のことである。
有名な一騎打ちのシーンも真偽のほどはわからないが、この第四次合戦(八幡原の戦い)がモデルである。
►第五次合戦(塩崎の対陣)
1564年(永禄7)年6月~8月
上杉輝虎(上杉政虎が、永禄4年末に、将軍義輝の一字を賜り改名)は、武田信玄の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣した。川中島に布陣する輝虎に対して、信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、2か月間にらみ合いで終わった。
►第六次合戦
1567年(永禄10)年7月頃
塩崎の対陣と同様の流れがあったという。